シャーマンのブルース§13「余、日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」


タイトルは第75代天皇崇徳院、最期の言葉から

舌を噛み切り血に筆を浸し「この経を魔道に回向す」、と

天皇の系図

崇徳天皇wiki

崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) – 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位保安4年2月19日(1123年3月18日) – 永治元年12月7日(1142年1月5日))。譲位後は新院、 配流後は讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。
鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。

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元永2年(1119年)5月28日に生まれ、6月19日に親王宣下を受ける。保安4年(1123年)正月28日に皇太子となり、同日、鳥羽天皇の譲位により践祚、2月19日に即位した。大治4年(1129年)、関白・藤原忠通の長女である藤原聖子(皇嘉門院)が入内する。同年7月7日、白河法皇が亡くなり鳥羽上皇が院政を開始する。

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院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛して、永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇に譲位を迫り、得子所生の体仁親王を即位させた(近衛天皇)[注釈 1]。体仁親王は崇徳上皇の中宮・藤原聖子の養子となっており、崇徳天皇とも養子関係にあったと考えられるため、「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』『今鏡』)[注釈 2]。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳上皇にとってこの譲位は大きな遺恨となった。崇徳上皇は鳥羽田中殿に移り、新院と呼ばれるようになった。

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久寿2年(1155年)7月23日、病弱だった近衛天皇が17歳で崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれた。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。鳥羽法皇や美福門院は、崇徳上皇に近い藤原頼長の呪詛により近衛天皇が死んだと信じていたといい(『台記』)、背景には崇徳院政によって自身が掣肘されることを危惧する美福門院、父・藤原忠実と弟・頼長との対立で苦境に陥り、兵衛佐局・重仁親王の件で崇徳上皇を良く思わない藤原忠通、雅仁親王の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったと推測される。また、守仁親王が直ちに即位した場合、その成人前に鳥羽法皇が崩御した場合には唯一の院になる崇徳上皇が治天の君となれる可能性があったが、父親でかつ成人している雅仁親王が即位したことでその可能性も否定された[2]。これにより崇徳院政の望みは粉々に打ち砕かれた。

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保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れ、7月2日申の刻(午後4時頃)に崩御した。崇徳院は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。『古事談』によれば、法皇は側近の葉室惟方に自身の遺体を崇徳院に見せないよう言い残したという。崇徳院は憤慨して鳥羽田中殿に引き返した。法皇が崩御して程なく事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流され、法皇の初七日の7月8日には、藤原忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。これらの措置は、法皇の権威を盾に崇徳院・藤原頼長を抑圧していた美福門院・藤原忠通・院近臣らによる先制攻撃と考えられる。

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13日、逃亡していた崇徳院は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。しかし覚性が申し出を断ったため、崇徳院は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。23日、崇徳院は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐国へ下った。天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだった。その後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御した。一説には、京からの刺客である三木近安によって暗殺されたともされる。

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配流先での生活と崩御
『保元物語』によると、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(『法華経』・『華厳経』・『涅槃経』・『大集経』・『大品般若経』)の写本作りに専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。崩御するまで爪や髪は伸ばしたままであった。また崩御後、崇徳の棺から蓋を閉めてるのにも関わらず血が溢れてきたと言う。

夜叉wiki

一般にインド神話における鬼神の総称であるとも言われるが、鬼神の総称としては他にアスラという言葉も使用されている(仏教においては、アスラ=阿修羅は総称ではなく固有の鬼神として登場)。

天狗wiki

天狗は、一説に仏法を守護する八部衆の一、迦楼羅天が変化したものともいわれる。カルラはインド神話に出てくる巨鳥で、金色の翼を持ち頭に如意宝珠を頂き、つねに火焔を吐き、龍を常食としているとされる。

(龍≒蛇)

迦楼羅天wiki

迦楼羅天(かるらてん)は、インド神話のガルダを前身とする、仏教の守護神。八部衆、後には二十八部衆の一員となった。「かるら」はパーリ語に由来。迦楼羅王とも呼ばれる。食吐悲苦鳥(じきとひくちょう)と漢訳される。
インド神話の神鳥ガルダが仏教に取り込まれ、仏法守護の神となった。口から金の火を吹き、赤い翼を広げると336万里にも達するとされる。一般的には、鳥頭人身の二臂と四臂があり、龍や蛇を踏みつけている姿の像容もある。 鳥頭人身有翼で、篳篥や横笛を吹く姿もある。
また那羅延天の乗り物として背に乗せた姿で描かれる。これは前身のガルダが那羅延天の前身ヴィシュヌ神の乗り物であった事に由来する。

ヴィシュヌ神wiki

ヒンドゥー教のいくつかの宗派がブッダをヴィシュヌのアヴァターラとして捉えている一方で、スリランカの仏教徒の間ではヴィシュヌはスリランカの守護神であり、かつ仏教の守護神として信仰を集めている[111]。スリランカではヴィシュヌはウプルヴァン(英語版)、またはウタパラ・ヴァルナとして知られている。ウタパラ・ヴァルナは「青い蓮の色をした者」という意味になる。

アシュラ=ヴァルナ=イナンナ

なお、イナンナは他にアシュラとも言われ、実は 2:の<エンリル>神話で登 場したアシェラと同じである。アシュラと言えば、イナンナが治めていたペル シャとインドに登場する。ペルシャではアフラ・マズダーであり、ゾロアスタ 25 ー教の最高神である。(以降、Wikipedia 参照。)その名は“知恵ある神”を意味 し、善と悪とを峻別する正義と法の神であり、最高神とされる。起源的には、 インド、イラン共通時代の神話に登場する最高神であるヴァルナである。確か に、イナンナはこの地域の最高神である。
神々の真相

崇徳院の怨霊伝説

ところが安元3年(1177年)になると状況は一変する。この年は延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。『愚昧記』安元3年5月9日条には「讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり」とあり、以降、崇徳院の怨霊に関する記事が貴族の日記に頻出するようになる。『愚昧記』5月13日条によると、すでに前年には崇徳院と藤原頼長の怨霊が問題になっていたという。安元2年(1176年)は建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去している。後白河や忠通に近い人々が相次いで死去したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始め、翌年の大事件続発がそれに拍車をかけたと思われる。崇徳の怨霊については、『吉記』寿永3年(1184年)4月15日条に藤原教長が崇徳院と頼長の悪霊を神霊として祀るべきと主張していたことが記されており、かつての側近である教長がその形成に深く関わっていたと見られる。精神的に追い詰められた後白河院は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し、8月3日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められ、頼長には正一位太政大臣が追贈された(『百錬抄』)。

身内に疎まれた理由

鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(待賢門院)の第一皇子であるが、『古事談』には、崇徳天皇は白河法皇と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽天皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されている。ただしこれは『古事談』のみの記述であり、真偽は不明である。

最高権力者である祖父(実父?)白河法皇が、意のままにならなかったもの、3つ

白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) – 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。
誕生 天喜元年6月19日(1053年7月7日)、崩御 大治4年7月7日(1129年7月24日)

「天下三不如意」
『平家物語』の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話がある。
「賀茂河の水」とは、古来氾濫を繰り返す暴れ川として知られていた賀茂川がもたらす水害のこと。「双六の賽(さい)」とは、文字通り双六の二つのサイコロが出す「賽の目」のことである[4]。「山法師」とは、勝手な理由にかこつけては日吉山王社の神輿を担いで都に雪崩れ込み強訴を繰り返した比叡山延暦寺の僧衆(僧兵)のことである。

寺社勢力wiki

平安時代末期から、延暦寺、興福寺などの大寺社は僧兵を抱えて独自の武力を備え、また神輿を担いで強訴を行い、自身の要求を主張するようになった。
また、衆徒・神人とよばれる俗人を多数配下において大人口を誇り、経済・学問・工芸活動などが盛んだった寺社周辺は、近年の日本歴史学で「境内都市」と呼ばれる一大メガロポリスであった。
延暦寺は、配下においていた祇園社が京の鴨川の東側に大きな境内(領地)を持っていたこと、興福寺は大和国一国の荘園のほとんどを領して中世を通してその経済力で京に大きな支配力を及ぼした。強大な寺社勢力である延暦寺と興福寺を合わせて「南都北嶺」(なんとほくれい)と称された。
また、大寺社内は「無縁所」とよばれる地域であり、生活に困窮した庶民が多く移民し、寺社領地内に吸収された。また、幕府が罪人を捜査する「検断権」も大寺社内には及ばず、そのため源義経や後醍醐天皇など、戦乱に追われた人々の多くが寺社にかくまわれた。
戦国時代末期において、織田信長、豊臣秀吉などは寺社勢力と激しく敵対し、苛烈な戦いを繰り広げた。だがその一方で、安土城の築城に延暦寺の職人を利用したり、根来寺の鉄砲を戦争に利用するなど、寺社勢力の高い技術力を活用もした。
秀吉の刀狩令は、百姓等のみならず寺社勢力の武器没収も意味しており、この結果として約五百年間続いた寺社勢力は日本の権力構造から消えることとなった。

そのまま消えたとは思えないが

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寺社とは何か? 中世の寺社勢力

以下に、寺社が備えていた物を整理しておきます。
「お寺」に対する認識が、全く変わります。

1.武力

鎌倉幕府倒幕時に、後醍醐天皇らは熊野・高野山・叡山に出兵を要請した。
この時の功績の恩賞として、叡山は若狭守護職が与えられている。

特に、叡山はただの武装集団では無く、戦場において槽達の手柄を記録、報告、審査して論功行賞を行う軍奉行を備えた武士団の様な性格を持っていた。

実践的にも、中世初期から、寺社同士の決戦はいくつも行われてきて、武士群、同様に数千人規模での戦闘が行われていた。興福寺VS延暦寺の興福寺からの果たし状は文書が残っている。

2.技術力

中世最初の山城建設は叡山。
城壁、堀、東西の塔を持ち、「城郭」を形成している。(因みに「城郭」は仏教用語)
同様に、根来寺(和歌山県岩出市)、平泉寺(福井県勝山市)等も強大な軍事力とともに、高度な石塁施設を築造しており、織豊政権より先行している。

3.観念

鎌倉時代末期、比叡山僧光宗が「渓嵐拾葉集」という本で、仏教以外に、武術、医学・土木・農業などの俗学を学んだと語ったように、中世において寺院は、先進文明、先進文化を生産し続ける場であった。
ルイス・フロイスは、当時、叡山を「日本の最高の大学」とみている。
対して、鎌倉時代、漢字を書ける武士は少なく、武士の文書は平仮名で書かれていた。
(学呂で漢字を書けない物など一人もいない時代である)

4.市場

中世の都市の多くは、寺社建築(ある意味摩天楼)を中心に、商工業・住宅地が配され、その外側に貧困民が集まる「寺社境内」が囲んでいた。
戦国時代の一向宗・日蓮宗寺院の「寺内町」が有名だが、平安時代から、京・太宰府・鎌倉だけで無く、南都北嶺、東寺、醍醐寺、石清水八幡宮寺、四天王寺など。無数に存在していた。

この「境内都市」は、油屋、紺屋、酒屋、武器屋が建ち並び市場を形成し、金融業者の土倉・蔵が建ち並ぶ金融街でもあり、法体職人が集住する一大工業都市でも有った。
根来寺「境内都市」では、都市内家屋の多くが、瓦屋根であった。大名の城さえも瓦を使っていぶりを物語っている。
また、根来の堅牢な漆塗りは有名で、日本全国に流通していることからも、全国的な市場経済ネットワークを確立していた可能性も高い。

宣教師ルイス・フロイスはこの根来寺僧の様子を見て「俗人の兵士の如き服装をなし、絹の着物を着し、裕福である故、剣および短剣には金の飾りを付し。衣服は俗人と異なるところがない。ただし頭髪は背の半ばに達するまで長く伸ばして結ぶ」と記している。とても宗教上の僧侶とは呼べない。

5.領主

寺院は、荘園領主としての性格も持ち合わせていた。所謂、寺社領荘園。
守護として領地を管理し、年貢を集め、警察権、裁判権、徴兵権を行使していた。
加えて、武士団同様に領地拡大に励み、戦闘後の敗者領地を「寺社で無ければ、祟りを納めきれない」などと、宗教的な正論も利用していたので質が悪い。
鉄砲に支えられた強大な軍事力を持つに至った、根来寺は、和泉守護細川元有、幕府有力者三好実休を滅ぼし、戦国大名にまでなっている。

以上、参照図書:「寺社勢力の中世」(伊藤正敏)

ルイス・フロイスwiki

ルイス・フロイス(葡: Luís Fróis [luˈiʃ frɔjʃ]、1532年 – 1597年7月8日(慶長2年5月24日))は、ポルトガルのカトリック司祭、宣教師。イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。

時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられる。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めた。この記録が後に『日本史』とよばれることになる。
当初、豊臣秀吉は信長の対イエズス会政策を継承していたが、やがてその勢力拡大に危機感を抱くようになり、1587年7月24日(天正15年6月19日)には伴天連追放令を出すに至り、フロイスは畿内を去って加津佐を経たのち長崎に落ち着いた。
1590年(天正18年)、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見した。1592年(文禄元年)、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡ったが、1595年(文禄4年)に長崎に戻る。 1597年(慶長2年)には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月8日(5月24日)長崎のコレジオにて没した。65歳。フロイスは日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、その貴重な記録を残すことになった。

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遠い国、歴史に見らる、相似象

化け物コワイコワイ詐欺もいい加減にしとかんと、リアルにモンスター呼んじゃうかもね!

ちなみに崇徳院は歌人でもあって、ロマンチックな詩を残してます

瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ
意:滝の水は岩にぶつかると二つに割れるが、すぐにまた一つになるので、現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれましょう。

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