出国税キター!from自ら選んでなったタマなし野郎たち


もっともらしい説明するが、本命の対象は
・・・

大人しいニッポンジン!

東大出て、アタマのいい僕ら。
リクツを付ければ、みんな諦める!
これからいろんな税、ジワジワ上げてくつもりデス!

上げた税の分、仲良くYOUたち民間で取り合いしな!

歴史上「宦官」と呼ばれた連中が、今のこの国の主人らしい。

宦官wiki
「宦」は「宀」と「臣」とに従う会意文字で、その原義は「神に仕える奴隷」であったが、時代が下るに連れて王の宮廟に仕える者を宦官と呼ぶようになった。当初、宦官は去勢された者(閹人)とは限らなかったが、後漢以降、宦官が閹人専用の官職になったため[2]、両者が区別されずに使われるようになった。別名を、黄門・太監・帳内、三保・三宝、火者・官者・宦者、閹人・資人・寺人・舎人・浄人・仙人などといい、その他にも甚だ多い。
刑罰として去勢(宮刑・腐刑)されたり、異民族の捕虜や献上奴隷が去勢された後、皇帝や後宮に仕えるようになったのが宦官の始まりである。しかし、皇帝やその寵妃等の側近として重用され、権勢を誇る者も出て来るようになると、自主的に去勢して宦官を志願する事例も出てくるようになった。このように自ら宦官となる行為を自宮あるいは浄身と呼ぶ。宦官になればある程度の立身は約束されたといってよいものの、現在のような医療技術がある訳もなく、去勢した後の傷口から細菌が入って三割が死ぬことから命がけであったともいわれている。
中国諸王朝において官僚は特権階級であったが、貴族(没落貴族も含む)ではない庶民階級の者が文武問わず正規の官僚として高位へ登る道は、隋以降に導入された極端に競争の激しい科挙(進士採用試験)を除くと事実上ないに等しく、自宮者は後を絶たなかったという。自宮宦官の例として、土木の変を引き起こした王振、皇帝を凌ぐほどの権勢を誇った魏忠賢等が知られている。
五代十国のひとつ南漢国は、特に宦官を重用したことで知られ、科挙の成績優秀者は、まず性器切断してから登用したほどであった。最後の皇帝劉鋹(在位958年 – 971年)の時代には、総人口100万人に対し宦官が2万人もおり、この国の男性25人に1人は完全去勢していたことになる。
統一王朝の場合でも、宦官は普通は多くても数千人ほどで、おもに後宮に配置された。しかし、明代には爆発的に増え、約10万人に膨れ上がった。 「皇明実録」によると、1612年(明の天啓元年)に政府が、宦官の補欠3000人を募集したところ、応募者が2万人に達したため、急遽募集人数を4500人に増やしたという記録が残されている。
庶民階級にとって、宦官となることは、富と権力を得る手段であったものの、宦官の社会はヒエラルキーに基づく階級社会であり、その頂点に位置する、国家を動かすほど大きな権力を持った宦官となるものは当然ごく一握りにすぎず、大多数の宦官は下の地位のままで一生を終えた。そして、下級宦官は、日々の生活において、上級宦官の不満のはけ口となり、いじめられることは日常茶飯事であった。そして、下級宦官は高齢になって激務に耐えられなくなったりすると、使い物にならないとみなされ、解雇された。そして、その多くは乞食としての生活を強いられ、餓死することを余儀なくされた。このような境遇に陥らないためにはひたすら上の階級に出世するしかなく、下級宦官は上級宦官に対して、媚びへつらい、機嫌を伺うことに力を尽くした。そのため、宦官の出世欲・権力欲はどんどんエスカレートしていった。

つまり
自ら選んでなったタマなし野郎たち

今の宦官は、下の連中まで、相当恵まれてますな!

国民の負担
全ては「宦官」の蓄財と生活のため。

ボクらはアタマいい。
税を採るため、リクツを捻り出すのは、大得意。
だって正論だから、文句言えないでしょう?

それとも、「権威」に逆らうの?

アタマいい僕らは、オツムの弱い暴力装置たちもコントロール!
他所の仲間ともネットワーク持ってるし、取りこぼしません!

迷惑な話、
こんな国、要らない。

今、必要なのは「無慈悲なGOD」