永久に戻れない、大ニッポン帝国共同体
あるセミナーで語られた「人生のステージ論」というのがあって、これが便利で、歴史上の政治形態に当てはめると、文明発達の原理を説明することが出来る。今の日本、世界が抱える問題の根源は何なのか?知る事も。歴史上の「謎」を説明する事が出来る。なぜヨーロッパだけで近代市民社会が起こったのか?なぜ日本は明治時代、いきなり法治主義国家へ移行出来たのか?
この理論、カール・ユングの弟子がまとめたものらしい。個人の人生でのステージを、8段階に分ける。
- ステージ1(自己中心):生物的欲求のステージ。赤ちゃん。
- ステージ2(自己犠牲):部族社会のステージ。子ども。家族や団体、学校のクラス。集団ルールを守り、自分たちと異なる外部は敵視する。ムラ社会もステージ2。
- ステージ3(自己中心):自己主張と反抗、チンピラのステージ。ステージ2でのルールに反抗する。
- ステージ4(自己犠牲):従業員のステージ。組織内での協調性が重視される。
- ステージ5(自己中心):自営業者のステージ。やりたい仕事、カネもうけで欲望を追及する。
- ステージ6(自己犠牲):ボランティアのステージ。他人を助けることで充足感を得る。
- ステージ7(自己中心):組織運営のステージ。企業経営。組織や仕事を「システム」として考える。思考の複雑化。
- ステージ8(自己犠牲):悟りのステージ。法則や原理、根源を求め、物事をシンプル化して考える。
自己中心、自己犠牲、自己中心、と、ジグザグに変化する。上位へのステージ移動は順番にしか出来ない。実社会でもそうなっている。赤ちゃんが大きくなって学校へ行き、集団生活に慣れ、やがて親や教師に反抗するようになり、学校を卒業後、就職。数年でサラリーマンがイヤになったので、自分のやりたい仕事で独立。会社を持って数年すると、青年会議所とかライオンズとか稀にはフリーメイソンとか、社会人のボランティア団体と関わるようになる。やがて自分の会社が大きくなり、組織の経営者になる。
しかし経験によってステージ7と8まで辿り着く人は少ない。だが生まれつきステージ8の人がいないとも言えないし、上位ステージへの移動には社会経験が必ず必要か?というのも、断定は出来ない。
法則性として、自分より下のステージは認識出来るが、上のステージを認識出来ない。上のステージの人物に接すると、自分より下のステージに勘違いしてしまう。下のステージには自由に行き来出来る。誰でも生物的欲求などは持ってるから、1日の中でも、各ステージを行ったり来たりする。
このように、もとは「個人」の発達段階を、類型化した理論。
参照:ムラの原理
(悪用例)
で、各ステージを、歴史上の社会形態に当てはめると
- ステージ2:帝国主義、荘園制、封建主義、幕藩体制、ムラ社会
- ステージ3:遊牧騎馬民族、マフィア、ヤクザ、チンピラ
- ステージ4:戦後日本、共産主義、終身雇用会社、官僚機構
- ステージ5:米国、自由民主主義国家、猟官制
- ステージ6:国連、フリーメイソン、国際組織
- ステージ7:世界支配の番頭格(ロックフェラー等)、国際資本、大企業経営者
- ステージ8:世界支配層
大雑把にはこんな感じ。
ステージは順番にクリアしなければならないし、ステージを卒業するには、「今のステージのやり方では問題を解決する事は出来ない」という「ジレンマ」が必要。
ヨーロッパでいえば、まずカトリックの戒律で縛られたステージ2の「帝国」があって、ステージ3の遊牧民(ゲルマン、フン族等)が侵入してくる。地方豪族が力を付けてくると、カトリック教会の戒律に対する反抗が起こり、プロテスタント運動(第5ステージの思想)。産業革命により、資本家の発生(第4ステージ)、やがて資本家と労働者が対立、プロレタリア革命。個人の権利が認められ、新参でも自由に起業が出来るようになる(第5ステージ)。資本主義と市場の発生、私的所有権の確立により、ステージ4からステージ5へ雪崩的に移行した。
法律=ムラの戒律
戦後ニッポンでは、憲法は米国流の「自由民主主義」なので、形式的には「ステージ5」。しかし構成メンバーの大多数は、従業員。ステージ4。
ところが法律(民法、刑法)は、帝国時代(ステージ2)、戦前のものをそのまま流用(部分改正)。法律はステージ2のまま。「ムラの掟」「帝国の掟」というやつ。守らなければ非国民。カトリックの戒律と同じ。
ほんらい憲法上では、三権分立。法律は国民から選ばれた国会議員だけが書くことになっている。しかし現実は、公務員ではない「官僚」が法律を書いている。議員立法なんて、やられていない。
ステージ5の憲法は、実際はあまり機能していないのである。実際に国を動かしてる官僚機構自体が、憲法違反。
戦後、法律は、憲法の趣旨に合わせ、米国と同じ判例法体系に変えるべきだった。誰かが勝手に書く戒律ではなく、裁判上で法を形成する、慣習法ベースに変えるべきだった。
それでも憲法に存在意義があるのは、「目指せステージ5」の、目標を差し示す効果があるから。税金や規制はクソだが、とりあえず個人が勝手に起業することは出来る。グレーゾーンで稼ぎを狙う事も出来る。
ニッポンは憲法でなくて、法律が「クソ」
今、憲法改正が議論になっているケド、問題は憲法よりも法律や条例。
国家の根本は「目指せ自由民主主義ステージ5」なのに、規律はムラ共同体懐古的なステージ2の「戒律」なのである。実務が「ムラの戒律」なのだから。憲法でいくら「ステージ5」の思想を示しても、ホーリツを書く奴らによって、民度は「ステージ2」のムラ社会まで引き下げられるのである。
更に(もとはGHQの策略ではあるが)需要を無理やり作り出すため、マスコミを操り、家族単位を分割、核家族化してしまった。法的には共同相続や相続税、男女同権といったもの。
米国よりも、むしろ官僚機構が、GHQが示したやり方で自分たちが儲かるので、意図的に悪用。海の向こうの親分を悪者に、ブラックボックス化。
公の私物化。天下り大企業、利権団体優遇。おせっかい福祉、累進課税、消費税、過剰な国保、年金など重税政策を膨張させ、極限まで需要を減らし、もうすぐ経済破たんである。
ステージ2の共同体社会(大日本帝国)なんて、第二次世界大戦の時、カミカゼ特攻や集団自決までやって、それでもぼろ負けした事で、とっくに卒業させられているのに。靖国神社は、「ステージ2コンプリートの碑」だ。
ステージ理論の法則性として、上のステージの者から下のステージの者は認識出来るが、下のステージの者が上のステージの者を認識する事は出来ない。理解不能なのだ。
日本では昨年、経産省役人が天下ってからステージ7のカルロス・ゴーンを追い出してしまったが、ステージ4の従業員社長たちが、国際企業となったニッサンの経営など、出来るワケが無い。
結果、99%減益。急いでステージ7の経営者を雇わないと、潰れる。
官僚が、自分たちが幾らアタマがいいと勘違いして何か企てても(クールジャパンとか)、経営者ステージのやるべきことは認識すら出来ていないのだから、経済政策は全て失敗するのである。
第4ステージばかりが集まると、何か問題があれば、校則(法律・条令)を追加するしか、能がない。創造性ナシ。彼らがニッポンの経済にちょっかいを出し、今がある。彼らの価値観、コンプライアンスやコレクトネスなど、クソである。そんなもので今ある問題を解決など、絶対に出来ない。役立たず。
なのでニッポンはもう、お・し・ま・い。
今の社会問題は「ジレンマ」現象
戦後、官僚が「平等な、幻想の国家共同体」を夢見て国をリードする事により、家族単位や男女の分断が起こったものだから、逆にナチュラルな共同体が総じて崩壊してしまった。勝手に戒律を書いて家族共同体を破壊したくせに、国家共同体の運営なんて、やってることが矛盾している。
今やニッポンジンの多くが「失われた共同体」のノスタルジーに浸ってしまっている。
孤独なおっさん達が、「らき☆すた」や「けいおん」などの、「萌え~」以外の、テーマもコンセプトも思想も何もない、「永遠の学園祭」のような学園モノ、京アニ作製のアニメに嵌ったのだった。
いっぽうでは70過ぎた老人が、失われた終身雇用、古き良きニッポンを夢見て、ネット右翼になってしまう。サヨクも同じ。失われた共同体のシンパシーに飢えてしまった。
そんな「古き良き共同体」など、もはや永遠に戻らない「幻想」なのだ。卒業すべきもの。
しかし彼らが「そんな共同体は自分には手に入らない、実在しないもの」と気付き、「裏切られた」と感じた時、悲劇が起こる。「京アニ焼き討ち事件」が示す意味。最後の「夢」を奪われた、NOTHING TO LOSE(失うものが何もない)な、「無敵の人」たち。元を辿れば、聖書のパウロが福音(Evangelion エヴァンゲリオン)を意図的に曲解し、それをチキュウジンが信じ込み、世界中に流布しまった「報い」だ。
今世界がガタガタしているのは、ステージ2~7のジレンマが、一気に発生しているから。これまでのメインストリームの発想では、これから起こる経済崩壊や極端な地球環境の変化には、到底対応出来ないのである。
次は、「目指せステージ8」。社会構成は「ステージ5」の自営業者が当たり前。リーダー格は、ステージ8の「覚醒者」でなければ、やってゆけなくなる。
このように、多大な犠牲を伴いながらも、世界の歴史は、計画的に、上手く回っているのである。誰によって?