「余剰の時代」を読んで

しばらくブログを更新してなかったんで、最近読んだ本で、気になったものを紹介したいと思います。

「余剰の時代」副島隆彦著(KKベストセラーズ2015年3月20日刊)

この筆者は、アポロ11号の月面着陸がどうのこうのという本を書いたので、巷ではトンデモ論者と思われている方も多いようですが、この本の内容は素晴らしかったので、紹介します。

この本、前半部分は思想書ぽくて読んでて眠くなったのですが、後半はかなりエキサイティングな内容で、届いたその日のうちに最後まで読んでしまいました。

この本のタイトルの、何が余剰かというと、つまるところ人間が余剰だという事です。

この記事を書いてるオイラはきっと社会の余計者。

たぶん、この記事を読んでるアナタもそうです。

どういう意味かというと、世界同時大恐慌なんかが起これば、経済を御破算するために、まとめて一気に処分されるかもしれない程度の軽い存在、ということ。

で、この本は、余計者である我々がどう生き残るか、についてのヒントを与えてくれる内容、となっています。

以下、この本から得た情報について散文的に書きます。(私見が含まれます)

有効需要

近代のヨーロッパ経済学者の思想の流れについて、重要な部分をかなり詳細に解説してくれているのですが、私は経済学に疎いので、最初は読んでて眠くなりました。
ここで重要なのは、市場原理に任せてもダメ、供給をコントロールしてもダメ、結局のところ有効需要を作り出さなければ経済はうまくゆかない、という点かと思われます。

自然法思想と自然権思想の違い

皆さん社会科や法学の授業で、自然法とか自然権という言葉は聞いたことがあるのではないでしょうか?

文字にすると似たようなこの2つの思想に、決定的な違いがあることについて、私はこの本を読んで初めて知りました。

ちなみに時系列では自然法思想の方が古く、自然権思想はそこから派生してきた思想です。
ちなみに、ここからさらに派生した急進的左派の人権派と動物の人権派が解説されていますが、これらは横に置いときます。

とはいっても、私はもともと、こういった人間が本来持っている権利がもともと自然にある、とか言われても「人権だとか、自然に元からあるわけないじゃん。そんなもの、全部人間が作った幻想!」と思ってたのですが、このような考え方は、上記の思想とは対局にある「リバータリアニズム」に近いという事が分かりました。
リバータリアニズムはこの本で重要なキーワードなのですが、こちらもとりあえず横に置いときます。

自然法思想の考え方というのは、人間にはもともと生きる能力があるが、たとえば貧富の差があるのは人間界にとって当然のことで、飢え死にする人がいても、無理に助けちゃいかない。労働者が搾取されているからといって、(フランス革命のように)革命を起こして人を殺すなんて事はしちゃいけない。といった考え方で、慎ましくいもあるが、冷酷な思想でもあると。権利の対象としては、ある程度経済的に恵まれた層が対象。

一方、自然権思想では、人は最低限度の文化的な生活を営む権利がもともとある(憲法25条みたいですね)、と考え、国家は貧困者に積極的に手を差し伸べるべきだ、と考えます。(しかし、自然権派の人たちの特徴として、権利を主張するだけで、その財源について深く考えないのです)

現在の政治思想では、自然法派も自然権派もリベラルに分類されるのですが、上記のように、同じリベラルでも内容が全く異なることが分かります。

副島氏曰く、今の日本国内の知識人のエライ方達は、この「自然法思想」と「自然権思想」の違いについて、なんと区別がついてないようです。

あー、ダメだわ。

この国では学者レベルでも欧米の政治思想を補足しきれてないから、相手の考えてることが読めないし、戦略も立てられず、ナメられるワケね。。

スクラップアンドビルド

人間というのは、歴史上で見ても、アレキサンダー大王の時代とか、経済で行き詰まって人が余ったら、働かないでそのへんにたむろしてる不良なんかを軍隊が引っ張ってつれて行って他国を攻めて、戦いの中で処分しちゃうということをやってきています。

これは(前述した)自然法思想に則って考えれば、人間界における自然法則であり、仕方のないことである、と考えることが出来ますね。

このような帝国の戦争は、およそ80年周期で起こっています。第二次大戦が終結してから80年といえば、もうすぐですね。

第三次世界大戦が起こるかどうか分かりませんが、現在の世界経済の状況は、明らかに、カネ余り、モノ余り、そして(職のない)ヒト余り、の状態です。
すなわち今大規模な戦争が起こっても、それは人間界における自然法則に過ぎないので、仕方ない事、と解釈されるワケです。

で、なぜ恐慌時に戦争が起きるかというと、破壊しつくされた都市を再建しなければならないので、莫大な需要が産まれるワケです。
そう、経済をうまく行かせるための「有効需要」を作ることができます。
すなわち、モノ余り、カネ余り、ヒト余りの経済上の問題を一気に解消できるので、そこから経済を再建可能、となるワケです。
この過程が、「スクラップアンドビルド」です。

リバータリアニズムのススメ

リバータリアンにとって自然権だとか人権は、人間が勝手に考えて作ったもので、もともと在ったと勘違いしているだけのもの、と考えます。
リバータリアニズムは、アメリカ開拓民的な思想で、「自分の身は自分で守る」とういう考え方です。
もちろん、本場米国のリバータリアンに銃は欠かせません。
極端な人になると、「役人だろうが誰だろうが、勝手にオレの敷地に入ったヤツは全員撃ち殺してやる!」となります。

リバータリアンは、勝手に税金を取られるのが許せません。
たとえばそれが福祉のための税金だろうと、「なんでオレの金を余所のヤツのために取り上げられなきゃならんのだ!」と怒り出します。
他人のために、自分のカネを取られるのが許せません。

そもそも、リバータリアンは国家という枠組みに縛られる事自体を嫌うのです。

まぁ、そこまで極端になる必要はないでしょうが、今のこの国の状況から考えれば、(方法は違えど)自分で自分の身を守る覚悟は必要なんじゃないでしょうかねぇ?

・・・疲れたので、これぐらいにしときます。

「「余剰の時代」を読んで」への1件のフィードバック

  1. 自分の身を自分で守るという話が、社会からの孤立と手詰まり、
    そして、福祉に支えられて生きている人へのポリシーを糾弾するという流れになってしまう。
    ソエジーは国家に頼るなといいつつ、きっと地域の産業振興金などはしっかり行動として受け取るだろう・・・・。ソレが弟子を含めて長生きしている秘訣なのだろうけど。
    一人で厳しい時代を生きるが孤立が結末でってはならぬ。助け合うチャンネルを多く持てるのか
    という話にそろそろ移らねばならない。
    リバタリアンの国家からの自由が、生活保護をもらうもらわないというポリシーへの態度表明で終わってしまう。ソエジもそうゆうアジを飛ばしがちだ。
    だが、自給自足の大草原の小さな家しかしめせぬのが現代なのだろうか。
    まずは、自分の生きる根拠を、吟醸を取り戻す基礎過ぎるところから始めたい。
    縄文弥生から江戸期にいたる封権化、明治にはじまる近代化と農村・地方の文化解体と都市への移住。故郷を人倫を奪われ壊され、霊的な自然とのつながりも、精神的指針も、人倫のセーフティーネットも
    知識的な蓄積も剥ぎ取られ続けられた庶民へ余剰の存在という社会体制側のレッテルを一切疑わない
    ソエジへは失望したね。外部を示すことが出来ないのだ。余剰とみなす社会の外側を。

コメントは停止中です。