修復しようとして燃え落ちる

修復工事で象徴的に燃え落ちてしまった、おフランスのノートルダム寺院。

ホーリツ(戒律)と権威主義の終焉

いっぽう、お寺の主、世界的に性倒錯(小児性愛)坊主が摘発される、カトリック教会。

解釈で修復を試みる、前法王。

前法王ベネディクト16世、聖職者の性虐待は「性の革命が原因」

2019年04月12日BBC

ローマ法王を6年前に生前退位したベネディクト16世が、キリスト教聖職者による性的虐待は1960年代の「性の革命」が原因だとする書簡を発表し、議論を呼んでいる。

前法王は、こうした文化的・歴史的な変化がカトリック教会の倫理観を「死滅」させたと指摘。性の革命によってカトリック教会に同性愛や小児性虐待が入り込んだと説明した。

そりゃ無理だろ。
「性の解放」が原因なら、なぜ男と女のストレートなセックスじゃなく小児性愛やホモばかりが蔓延したのか?

性的倒錯のメカニズム

教会の崩壊が、全てを象徴している。

カトリック教会=戒律。戒律が「要らないもの」であれば、教会自体の存在理由が消えてしまう。
ほんらい「勝手に神を信じてれば救われる」というのがキリスト教だから。

「燃え落ちた寺」といえば、三島由紀夫の「金閣寺」

金閣寺あらすじ

日本海へ突き出た成生岬の辺鄙な貧しい寺に生まれた溝口(「私」)は、僧侶である父から、金閣ほど美しいものはこの世にないと聞かされて育った。父から繰り返し聞く金閣寺の話は、常に完璧な美としての金閣であり、溝口は金閣を夢想しながら地上最高の美として思い描いていた。

体も弱く、生来の吃音のため自己の意思や感情の表現がうまくできない溝口は、皆にからかわれ、極度の引っ込み思案となり、人に親しまれず、内攻したコンプレックスのために、海軍機関学校に行った先輩が持っていた美しい短剣の鞘に醜い傷をつけたこともあった。また、官能的で美しい娘・有為子に嘲られ、軽蔑されたこともあり、女と自分とのあいだに精神的な高い壁を感じ、青春期らしい明るさも恋愛もなく生きていた[注釈 4]。

やがて溝口は、病弱であった父の勧めで、父の修業時代の知人が住職を務める金閣寺に入り、修行生活を始めることとなった。金閣をまだ見ていなかった時は、金閣の美を恣に想像していたが、実物を目の前にして見てみると心象の金閣ほど美しくはなかった。しかし戦況が激化する中、金閣も自分も共に空襲で焼け死ぬかもしれない同じ運命に思いを馳せると、金閣は悲劇的な美に輝いた。溝口は、室町時代から続く金閣寺が永劫的と見られながらも、実はいつ破壊されるとも限らない、完璧で永遠の儚い美として捉え、その観念は自己の不遇と孤独の中で実際の金閣よりも遙かに強力な精神的な美として象徴化され、固定化されていた。一方、病み衰えていた父が死んでから母は、一生懸命勉強して金閣寺の住職になれと溝口に野望の火を焚きつけようとする。母はかつて、溝口が13の時のある夜、同じ蚊帳の中で父と子も寝ているそばで、親戚の男と交わっていた。目が覚めた息子の目を、父は後ろから手で目隠しをした。

同じ徒弟生活で出会った同学の鶴川は、溝口と対照的な明るい青年だった。彼は溝口の吃音を馬鹿にしない唯一の友であり、溝口の心の陰画を陽画に変えてしまう存在でもあった。戦争末期のある日、二人は南禅寺の天授庵の茶室で、一人の美しい女が軍服の若い陸軍士官に茶を供しているのを見た。女は男に促され、自身の乳房から乳を鶯色の茶に注いだ。溝口はその女に有為子を重ねた。

やがて、戦争が終わり、金閣と「私」(溝口)とが同じ世界に住んでいるという夢想も崩れた。金閣寺のまわりには娼婦を乗せた米兵のジープなど俗世のみだらな風俗が群がるにいたった。溝口は住職の老師の計らいで入学した大谷大学(仏教系大学)で、両足に内反足の障害をもち、ぬかるみの中を一歩一歩進むような不自由な歩行で移動し、いつも裏庭で一人離れて弁当を食べている級友・柏木と出会う。一見した柏木の障害に自分の吃音を重ね合わせ、僅かな友人を求めるべく話しかけた溝口だったが、柏木は女を扱うことにかけては詐欺師的な巧みさを持ち、障害を逆手にして高い階層の女も籠絡している男であった。障害を斜に構えつつも克服し、確信犯的に他人への心の揺さぶりを重ねることでふてぶてしく生きる柏木を、一旦感銘しながらも不自然で刺々しい生き方だと溝口は思ったが、精神的な距離を置きつつ友人となった。柏木の批評はいつも辛辣で、溝口の心の揺れや卑怯も鋭く指摘した。溝口は、そんな柏木から女を紹介されるが、女を抱こうとした時、目の前に金閣の幻影が立ち現れ、失敗に終わった。

もう一人の友人の鶴川が死んだ。「事故」ということだった。溝口の孤独な生活が又はじまった。しかしそんな中でも、柏木から禅問答「南泉斬猫」を巡る彼の持論解釈を聞いたり、尺八を教えて貰ったりすることで、まがりなりにも若い自分の人生の1ページを刻み、「外界」との通路を持つ柏木から学ぶことで「人生」を生きようとしていた。そして再び、柏木の計らいで、女を抱く機会を与えられる。その女はいつか天授庵の茶室で見たあの女だった。しかし、またしても女の乳房の前に金閣が出現し、溝口は不能に終わる。溝口は金閣に対し憎しみを抱くようになる。

溝口が女の美を目の前にすると、いつも金閣が現れていたが、溝口はある日、菊の花と戯れる蜂を見ている時、自分が蜂の目になって、菊(女、官能の対象)を見るように空想する。その時、ふと、自分が蜂でなく人間の目に還ると、それはただの「菊」に変貌した。その蜂の目を離れた時こそ、自分が金閣の目をわがものにしてしまい、生(女)と自分の間に金閣が現れ、性的な自己の存在を無価値化してしまうという構造に行きつく。このように金閣(虚無)の目で見、変貌した世界では、金閣だけが形態を保持し、美を占領し、この余のものを砂塵に帰してしまうことを溝口はおぼろげながら確信してゆく。

正月のある日、溝口は雑踏の中で、女(芸妓)を連れて歩く老師に偶然、行き会った。尾行されたと誤解した老師は溝口を叱咤した。しかし翌日に呼び出しもなく、溝口には釈明の機会もなかった。その後も無言の放任が続き、溝口を苦しませた。以前、溝口が米兵に命令され娼婦を踏みつけ、後で女からゆすられた時も老師はなぜか溝口を不問に附していた。溝口は老師を試そうと、愛人の芸妓の写真を、老師が読む朝刊にはさみ、憎しみを誘うことで老師との対峙を待った。自ら、後継住職になる望みを永久に失うことになるようなことをし、その一方、溝口は人間同士が理解し合う劇的な熱情の場面も夢想し、老師からゆるされ和解した自分が鶴川のような明るい感情になることさえ夢みていた。だが写真は無言で溝口の机の抽斗に戻された。

これらのわだかまりが累積し、次第に溝口は学業の成績も落ち、大学も休みがちになっていった。溝口は自ら決定的に将来の望みを断ち切ってゆく。学校からの注意が老師にもいった。寺に修行に来た当初は父の縁故で老師に引き立てられ、ゆくゆくは後継にと目されていた溝口だったが、ついに老師から、もう後継にする心づもりはないとはっきり宣告された。老師は溝口に、芸妓の一件のことについても、「知っておるのがどうした」と開き直った。

溝口は柏木から金を借り、寺から家出した。舞鶴湾に向かい由良川から裏日本海の荒れる海を眺め、溝口はそこで、「金閣を焼かねばならぬ」という想念の啓示に搏たれる。由良の宿で不審に思われた溝口は警官に連れられ金閣寺に戻された。息子が金閣寺住職になることに強い期待を抱いていた母は、必死に住職に謝ることで息子の将来をつなごうとあがいていた。醜く歪んだ母の顔に、溝口は「不治の希望」の醜さを見る。

孤独を増す溝口に、柏木は破滅的なものを感じ、鶴川から死の直前に届いた手紙を見せる。溝口には柏木との交友を非難しながらも、鶴川は、自殺の前に柏木のみに本心を打ち明けていたのだった。鶴川は翳りのない心を持っていると認識し、信じていた溝口にそれは少なからず衝撃であった。柏木は溝口に、「この世界を変貌させるの認識だ」と説く。しかし、これに対し溝口は、「世界を変貌させるのは行為なんだ」と反駁する。

溝口は、老師が訓戒を垂れる代わりに施した金で五番町の遊廓に女を買いに行った。金閣を焼こうという決心は死の準備に似ていた。万一のときのためカルチモン(催眠薬)と小刀も買った。その日が来た。その夜は、寺に福井県龍法寺の禅海和尚が来訪していた。溝口は和尚に「私を見抜いてください」と言うが、和尚は「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらわれておる」と答える。溝口はその言葉に、初めて空白になり、「隈なく理解された」と感じ行動の勇気が湧く。

溝口は、金閣寺放火の行為の一歩手前にいた。そのとき眺めた金閣寺は、燦然ときらめく幻の金閣と、闇の中の現実の金閣が一致し、たぐいない虚無の美しさにかがやいていた。溝口は金閣寺に火を点けた。燃え盛る金閣の中で溝口は突然、究竟頂で死のうとするが扉はどうしても開かなかった。拒まれていると確実に意識した溝口は、戸外に飛び出し山の方へ駆けた。火の粉の舞う夜空を、膝を組んで眺めた溝口は煙草を喫み、ひと仕事を終え一服する人がよくそう思うように、「生きよう」と思った。

”溝口が女の美を目の前にすると、いつも金閣が現れていたが、溝口はある日、菊の花と戯れる蜂を見ている時、自分が蜂の目になって、菊(女、官能の対象)を見るように空想する。”

菊の花といえば天皇家。

社会学者の小室直樹氏は、明治~昭和戦時中の、「天皇崇拝の正体はキリスト教」だ、と暴露。

「人の子にして神の子」明治天皇は、宗教の構造上、イエス・キリストに同じ。

自ら憲法と法律を公布した明治天皇の登場自体が、キリスト教文化ヨーロッパ圏の「近代市民国家」を輸入するための、トリック。ニッポンという文化圏運営のテクニック。

戦後、現人神が人間宣言して以降。イエス・キリストはいなくなったが、取り巻き坊主(霞が関)だけが残り、勝手なルールをバンバン作り出した。

聖書と同じだ。使徒を騙ったパウロが、勝手に福音書を解釈し、戒律のベースになった。それがホーリツへ変化。自然法論。

今のニッポンのホーリツは、バリバリのカトリック(パウロ教)。カトリックだから、イエスの「信仰心で奇跡を起こす」という話ではない。一方的に「権威に従え」

法律=クソ

出世のため、守れもしないルールをバンバン作るものだから、不正が次々発覚。天下り先企業でも、品質基準や検査基準違反。

ルールを作るたび、「言ってること」と「やってること」の乖離が増大する。

とっくの昔から、国家自体が「役立たず」。カトリック教会と同じで、倒錯坊主(官僚)がカネと自由を奪う、国家そのものが役立たず。

今更「愛国心」なんて唱えても、戻れやしない。あれは一時的テクニック。

で、諸悪の根源が「戒律=法律」

三島由紀夫氏自決の時には既に、終焉ストーリーは確定済だったのだろう。