ナンバー8のARAYASHIKI
「アスカとナスカ」からの続き。
ルポライターの五島勉が三島由紀夫から聞いた古代都市伝説。五島氏はミシマの謎を追い、遥々インドの古代都市アスカへ。
問題は、五島氏が、取材した謎の仙人から貰ったメッセージ。
「ダルガはそれを待っておった。ダルガとは、四〇の顔を持っ滅びの魔王、滅びのカルメを執行する魔神じゃ。世がおだやかなときは眠っておるが、人の心が狂い、世をよごし、たがいに戦いあうようになると、その煙と音でダルガは目を醒ます。そのときもそうじゃった。人間が憎みあい、戦いあっておるのを見て、ダルガは八〇本の手を打って喜び、人間をいっそう苦しめるため、使者イシュータを天から投げてよこした」
<途中略>
若者にも、(そんなものが役に立つかどうかわからなかったが)、日本製のメモ帳とシャープペソ、万一のため持ってきたカロリーメイトを一パック、お礼に贈った。
すると聖者が、お返しをやろう、と言って、強烈な香りのオレンジ色の花を一輪、くれた。また、自分は山々をめぐって行をつづけるので、二度と会うこともあるまいから、と、謎めいた別れの言葉を贈ってくれた。
「ダルガ・スバターエドーデ・ラグラ・ラビエスキエ・サダーヤガ・カルメ・ルェ」
言い終わると聖者はミイラのような瞑想に入った。若者も、もう師の言葉を訳してはくれず、きびしい身ぶりで「早く去れ」と示した。
仙人の言葉を翻訳したのが、”ダルガはふたたび、目を醒ました。おまえらの心が元へもどらなければ、カルメは繰り返す、もうすぐに”
どういう意味か?
まず、ダルガとは具体的に何者か?
ドゥルガー(サンスクリット語: दुर्गा, Durgā)は、ヒンドゥー教の女神である。その名は「近づき難い者」を意味する。デーヴァ神族の要請によってアスラ神族と戦った。シヴァ神の神妃とされ、パールヴァティーと同一視された。
容姿
外見は優美で美しいが、実際は恐るべき戦いの女神である。3つの目を持っており、額の中央に1つの目がある。10本あるいは18本の腕にそれぞれ神授の武器を持つ。虎もしくはライオンに乗る姿で描かれる。神話
神話によると、アスラ神族の王マヒシャースラがアスラの軍勢を率いて天界を攻め、天界に住んでいたデーヴァ神族の神々を追放してしまった。敗れたデーヴァ神族はシヴァとヴィシュヌに助けを求め、それを聞いたシヴァとヴィシュヌは怒り、光を発した。他の神々も光を発し、光が一つに集まり狂暴な女神チャンディー(ドゥルガーの別名)が生まれた。チャンディーはアスラ神族討伐のためデーヴァ神族から以下のものを授かった。(後は省略)
またか。
古代の女神の復讐。
カルメとは、仏教でいう業。
仏教およびインドの多くの宗教の説では、善または悪の業を作ると、因果の道理によってそれ相応の楽または苦の報い(果報)が生じるとされる。業は果報と対になる語だが、業の果報そのものを業という場合もある[4]。仏教はすべての結果について「偶然による事物の発生」「(原因なく)事物が突然、生じること」「神による創造」などを否定し、その原因を説くのである。
業の思想はインド発祥の宗教(とりわけヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シーク教)と道教において、輪廻と強く結びつく概念である[7] これらの多くの説では、善意と善行は良いカルマと幸福な転生をもたらし、悪意と悪行は悪いカルマと悪い再生をもたらすとされる[8](善因善果、悪因悪果)。
業wiki
業による輪廻転生。唯識説を解説した、三島由紀夫の小説から。
……本多はそのとき、すぐ次の頁にある以下のような問答が、たちまち予感される心地がした。
「王問うて曰わく、
『尊者よ、何人でも、死後また生れ返りますか』
『ある者は生れ返りますが、ある者は生れ返りませぬ』
『それはどういう人々ですか』
『罪障あるものは生れ返り、罪障なく清浄なるものは生れ返りませぬ』
『尊者は生れ返りなさいますか』
『もし私が死するとき、私の心の中に、生に執着して死すれば、生れ返りましょうが、鴛らざれ
ば生れ返りませぬ』
『善哉、尊者よ』」このときから、ミリンダ王の心には熾んな探究慾が生れて、次から次へと執拗に輪廻転生についての問を投げかける。仏教における「無我」の論証と、「無我であるのに、なぜ輪廻があるのか?」という輪廻の主体に関する王の追究は、ギリシア的な対話による螺旋状の究理を以て、ナーガセーナに迫るのである。なぜなら、輪廻が、善因楽果・悪因苦果の、業相続によって応報,的に起るものならば、そこには行為の責任を負う恒常的な主体がなければならないが、ウパニシャッド時代にはみとめられた我が、長老の属する部派仏教のアビダルマ教学ではきっぱり否定された以上、まだ後の世の精巧な唯識論の体系を知らない長老は、「実体としての輪廻の主体はない」と答えるにとどまった。
しかし本多は、輪廻転生を、一つの燈明の譬を以て説き、そのタベの焔、夜ふけの焔、夜のひきあけに近い時刻の焔は、いずれもまったく同じ焔でもなければ、そうかと云って別の焔でもなく、同じ燈明に依存して、夜もすがら燃えつづけるのだ、というナーガセーナの説明にえもいわれぬ美しさを感じた。縁生としての個人の存在は、実体的存在ではなく、この焔のような「事象の連続」に他ならない。
そして又、ナーガセーナは、はるかはるか後世になってイタリアの哲学者が説いたのとほとんど等しく、
「時間とは輪廻の生存そのものである」
と教えるのであった。三島由紀夫 豊饒の海 第三巻 暁の寺 第一部15
識とは、ズバリ心の事に他ならない。ジョージ・ソロスの哲学で言えば、「相場が必ず間違える」のは、間違えた情報判断と行動の蓄積。間違えた結果が”識(心)”に入り、因果の法則で廻っている。
まだ持つと思う?微分し過ぎて、もう後が無い。
もはや時間と空間を遠隔透視する者しか、生き残ってはならない。権威や権力に、自身の意思決定を頼る者達はダメだ。
しょうがない。